台湾・新竹市(友好都市)訪問(10月23日~10月26日)について

市民団の皆様と共に岡山市の友好都市である台湾新竹市と鳥山頭ダムのある嘉義市へ行ってまいりました。
出発日台風21号の影響で岡山空港から出発できず、新幹線に乗り、関空から台湾桃園空港にと変更になり、関空ではダイヤが乱れ、関空発は午後6時過ぎと大幅に遅れました。
翌日新竹駅の再開発の説明と現地視察を行った後、日本兵を祭る「聖軍堂」に参拝しました。戦後70年第2次世界大戦で亡くなられた日本兵を弔い続ける小さな霊堂で戦時中日本兵と絆を育んだ住民たちが米軍による空爆の犠牲者を悼んで小さな石などを祭るようになり、終戦後の厳戒令下親日的な行動が許されなかった時代も大切に守り続けてきたという事です。現地の住民は「日本人と心を一つにして先の大戦を戦ったという思いがあったから今日まで慰霊を続けてきたのだと思う」と語っておられました。地域の住民が手を合わせる祭壇には高さ20~40センチ程の軍刀を携えた3体の日本兵像が縦一列に鎮座していました。国民党を率いた蒋介石(1887~1975)が死去した後、日本兵の像が安置され、お堂は「聖軍堂」と名付けられました。死者を悼む慰霊祭も続けられています。
地元の人に感謝し、僅かの浄財を気持ちを込めて上納し、手を合わせました。

翌日はホテルを早朝に出発し、日本人の八田與一が築造した鳥山頭ダムを視察しました。住んでいた宿舎も復元されていて現在、公園を整備中でありました。奈良女子大学付属高校の皆さんが修学旅行で来られていました。八田與一氏は東京大学土木工学科を卒業し、56歳で亡くなるまで台湾で鳥三頭ダムや嘉南大士川など農業水利施設をはじめ台湾の多くの重要な土木の工事計画に参画し、1942年5月8日に亡くなるまで一生をかけてその建設に当たり、その貢献度は卓越しており、台湾の人々からも尊敬されています。戦後末期、金属類の供出命令が出た時、地元の人たちは八田與一の銅像をこっそりと現在の隆田駅の倉庫に隠したという事です。それが戦後になって発見され、水利会の人達によって鳥山頭に戻されたのだそうです。軍の命令に背いても銅像を守るという地元の人々の八田與一に対する思いに感動いたしました。奈良女子大付属高校の学生が修学旅行で来られていましたが、八田與一のような立派で地元の人々に今でも尊敬されている人の足跡を高校生が見学する事は非常に意義のある事で是非岡山の高校生にも知って頂きたいと思います。

    八田與一像と
 
   後方は鳥山頭ダム
 


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